スプリング・エフェメラル

体中を覆う土の香り。
冷たく美味しい水が、ぴちゃ、ぴちゃと音を立てながら全身に染み込んでいく。重く圧し掛かっていた土が、僅かに軽くなる。
微睡んでいた僕は覚醒する。もうじき春なのだ。どれだけ待ち焦がれたことか。
そうだ、君だ。僕と同じように、光を知らない君。この瞬間を心から待ち望んでいたはずだ。今度の春は、ただの春じゃない。今まで葉しか出せなかった僕たちが、ついに花になる。
「光の春が来たよ。やっと君に会えるよ」
僕は、身を捩りながら、きっと傍にいるであろう君に話しかける。
土の粒が僅かに震える。僕は返事を待った。
十分、一時間。返事は無かった。僕の声は、新鮮な水を含んだ土の粒と、その間にある僅かな空気を、ほんの少しだけ震わせる力しかなかった。でも、失望なんかしない。
彼が砂粒を十個分くらい挟んだその先にいるって、分かってるから。ああ、僕に指があったら。
はやく君に触れたい。


僕の夢の中に登場する君は、不思議な姿だけども、とても美しかった。と僕の語彙力じゃ、陳腐な表現をすることしかできないけど、とにかくとても美しかった。高い高い青空と、綿みたいな白い雲の背景が、君には世界一似合っていた。
細くてさらりとした髪。華奢で無駄のない体に着せられた、首元に三角形の布が付いている淡い紫色の服。それで、心地よい風が吹いていて、君の着た服がパタパタとしきりに音を立てている。
「それであんたはさ、結局春になったら何がしたいのさ?」
突然君がこちらを向いて、真面目な表情でそう言う。
「何がしたいって?」
「春が楽しみ楽しみって言うけど、実際春がどんな世界か見たことないくせに。どうすんだよ、最悪だったら」
そうだそうだ、と足元から無数の声なき声が聞こえる気がする。足元には、青々とした僕たちの仲間が生い茂っている。
「何もかも知らないわけじゃない。目は見えなかったけれど、この指先で、七度も僕は感じたんだ。静かで、澄んでいて、暖かかった。それにたまに飛べる仲間たちがやってきて、話しかけてくれた。答えることはできなかったけどさ。君も同じじゃないのか?」
僕がそう言うと、君は何か言いたげに眉間に皺を作り、フンと鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまう。僕はそんな君の傍に寄ると、所在なげに開いていた君の指先にそっと触れた。風に乗って、春の朝露みたいな香りが漂う。
「あの日、こんな風に指先が触れたね。ほんの少しの間、心を通わせることができたね。あれは何回目の春だっけ。あの日から、僕の傍に君を認識したあの瞬間から、僕は頭の中は君のことでいっぱいだよ。早く君の本当の姿を見たい」
君の目がどんどん赤くなっていく。端にたまっていく朝露みたいに綺麗な水滴は、ふるふる震えて、まっすぐ下に落ちていく。
僕は慌ててその水の痕を手で拭う。何が起こっているのか分からない。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫。自分でも何か、わからない」
「悲しかった?」
君は首を振る。
「ちょっと楽しみになったわ」
「なにが?」
「春。ちょっと怖かったんだけどさ。あんたの顔が見れるって思ったら」
君はそう言って、水を目に滲ませたまま意地悪そうに笑う。
「僕の顔?」
「そう。あんな台詞吐いたやつが、ミミズみたいにヘンテコな顔だったら大声で笑ってやるから」
「ひどいよそれは。自分で見たことないから、ヘンテコかもしれないのに」
「別に、ヘンテコだからって嫌いになんてなりやしないよ」
君が、あははと声を上げて笑う。その横顔が、やはり美しくて、僕は心を掴まれる。
嫌いになんてなりやしない。それはつまり好きってことだ。なんだ。君も同じなんじゃないか。
僕はほっとして、思わず君に抱き付く。鼻いっぱいに吸い込む、春の匂い。心配しないで。きっと、春は君みたいに美しいよ。


思い返せば、たった一度、ほんの少し葉が触れて、少し会話を交わしただけだった。それから君を思わない日は無い。だって君は、僕の夢の中で、形を持って、確かに存在していたのだ。あれは何だったのか。僕はよく夢を見る。土の中は、暗くて音の無い世界だ。たまにミミズやモグラがぶつかってきて目を覚ますこともあるけど、そうじゃない時は大抵深い深い眠りについている。そのたびに、何度も何度も繰り返される同じ光景、会話。もう隅々まで覚えてしまった。
あれは誰? 本当に君なの? それとも、僕が作り出してしまったものなの? 早く確かめたい。苦しい。会いたい。冬なんか飛び越えて、早く春よ、光よ、来てしまえ。


深く眠っていた僕は、何かに触れたことで目が覚めた。目を開けると、突然頭に激痛が走り、すぐ閉じてしまう。白い。眩しい。今まで感じたことのない感覚に、僕は衝撃を受けながらも、何が起きたか確かめるためにもう一度ゆっくり目を開ける。
相変わらず眩しいが、薄目を開けていると、徐々に目が慣れてくる。淡い紫の、それはそれは美しい花が、目に飛び込んでくる。僕は思わず息を呑んだ。
君は、枯れ葉で濡れたの地面に緑色の葉を広げ、中心から長い首を伸ばしている。その先端に、淡い紫の花弁を六つ大きく開かせているが、その顔は恥ずかしそうに、下を向いている。
「春が来たな」
 それは、君の声。優しく、深く、時に荒々しい、春みたいな君の声。僕は間違っていなかった。君は、ずっと僕の隣にいたのだ。
冷たい風が体を揺らす。わずかに蜜の甘さを含んだ新鮮な空気を体いっぱいに吸い込む。幸せすぎてむせ返りそうだ。優しい風のはからいか、大きく広げた僕達の葉は何度も触れ合う。君に言いたかったこと。聞きたかったこと。何度も何度も心の中で予習した、溜め込んだ会話を、僕は一気に伝えようとして、君は笑った。
ふと周りを見ると、僕らによく似た薄紫の恥ずかしそうに下を向いた花たちが、地面いっぱいに咲き誇っている。風が来るたび、彼らも互いに触れ合い、言葉を交わし合っているのだろうか。
そら見たことか、と僕は思う。
「春は、素晴らしい世界だろ?」
僕がそう言うと、君は恥ずかしそうに下を向いた。
美しい虹色の朝露が、君の花弁を伝っていった。
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